
さて、ほんの時たまではあるが『記4』の読み方が分からないという方がいらっしゃって、彼らはどう読んでいるのかと言うと「きよん」「きし」である。「きかとる」「きすー」といった国際色豊かな読み方をされた方には未だかつて会ったことがない。「きよん」であるならばそのまんまなだけなのでまだ良いが、「きし」だと4がデスナンバーのごとき扱いをされてしまっているようで大変に怖い。イメージ的には「騎士」を念頭に置かれているのかも知れず、それならば嬉しいのだけどこのウェブログのどこに騎士道が通っているのかキリハラにもよく分からないから断腸の思いで却下せざるを得ない。
前置きが長くなりましたが、『記4』の読み方は「きふぉー」が正解です。
僭越ながら命名の経緯について説明させていただくと、第一に『記』という存在があった。これは以前運営していたウェブサイト『ふゆきょう』で絵日記をモチーフに毎日更新していた画像コンテンツである。そしてウェブサイトのスペースを有料レンタルサーバに移して再始動した『新ふゆきょう』に移行した唯一のコンテンツがこの『記』であり、一応引き継ぎ企画ということで名前は『記2』に変更した。
その後、ウェブログ隆盛時代の到来を予感したキリハラが慌ててMovableTypeというcgiの導入によって設置したウェブログが『記3』である。しかしこの『記3』、レンタルサーバ側の説明書に書かれた手順をそのままなぞって設置したにも関わらずまともに動作しなかった。コメントを記入しても反映されないなどのトラブルが頻発し、わずか三日間で運営を諦めざるを得ない状況にまで追い込まれたのである。プログラマーの友人によると「cgiなんて説明通り設置しても動くはずがない」そうだが、あんまりですよねそれって。
そんな折に登場したのがレンタルウェブログ『ロリポブログ』である。これを利用したウェブログの再構築。ウェブログに対して絶望的気分に陥っていたキリハラにとって、このサービスは渡りに船というか海難事故中の救命ボートであった。このロリポブログでもいくつかの初期問題は発生したものの大きな所までは至らず、現在まで利用を続けている。これが『記4』である。読み方は、繰り返しになるが「きふぉー」。
そんな『記』の歴史とは無関係に石原慎太郎のことでも書いてみます。
以前、一度だけ「石原慎太郎も怖いが奴を選ぶ人が三百万人いる東京都も怖い」というような記事を書きました。それは数ヶ月も昔の話なんですが、暇なので蒸し返してやろうというわけです。慎太郎はいつでも嫌いだしね。
東京都在住の市民様様のうち都知事に石原を選んだ方は上記の通り軽く百万の位に達するわけですが、その人達は何故か次のことに気がついていないようです。
石原慎太郎は一般市民を見下し、馬鹿にした態度をとっている。
投票した方の多くはそんなこと夢にも思わず、逆に石原が名もなき一般市民の味方と信じて疑わないようです(疑っていたら入れんよな、多分)。ここが不思議でならない。キリハラのようにテレビもろくに見ず新聞からニュースも仕入れて来ない人間であっても、何度か会見など目にしただけで石原の大衆蔑視態度は伝わって来ます。これはまた母校である東京都立大学の取り潰し問題といった個人的利害が絡んで来るので偏った視線が含まれていることは確実ですが、それを差し引いたとしても確信を持って言い切れます。勘で。
投票者の多くは、自分を見下している人物を頼りにしている。
これはなかなか恐ろしい構造だと思います。自分への悪意という敵概念がそこにあることにも気付かず、むしろ言いたいことを言っている態度に心酔してしまう。その態度は上から見れば「どうでもできる」ものであり、ちょっと煽れば簡単に動いてくれることを意味します。その上煽りの意味はみんな図ったように無視してくれる。世が世なら独裁者にだってなれるでしょう。危険です。
さてみんな気付いてねえ気付いてねえと叫んでいるだけでもひがみっぽいので、ここでもう一つの態度を浮き上がらせてみます。それは、投票者で石原のスタンスに賛同している上に、彼が一般市民を見下していることを了解済みの人間です。彼らの論理はこうです。一般市民は基本的に馬鹿である。自分はそんな馬鹿市民とは違う。石原と同じ立脚点にいる。だから石原の態度は正しいと思うし、自分もそれに乗ってやろう。
これもまた危険な考え方です。何故かと言うと、この筋道によると「自分が馬鹿な一般市民である可能性」が排除されてしまうからです。何故周りのみんなが馬鹿であるのに自分だけは馬鹿でないと言い切れるのか。自分は自分の中で相対的に馬鹿より上にいると思い込んでいるだけで、その実「石原が馬鹿だと思っている連中」に含まれてはいないだろうか。このような疑問は湧いて然るべきですし、そこに至ることができるならば安易に石原賛成などとは言えないはずです。しかし彼らは自分を疑うつもりはあまりないご様子。これもまた危険思考と言えるでしょう。
石原投票者の二態について書いてみました。これらに共通するのは「自分の立脚点を見極められていない」ことだと思います。前者では「自分は馬鹿かどうか分からないが、石原に馬鹿にされる立場にはいない」という勘違い、後者は「自分は他の馬鹿と違うから石原に馬鹿にされる立場にはいない」という勘違いが生じています。どちらも「石原に馬鹿にされる立場にはいない」という妄信に担保された思考ですね。
「自分が今どこにいるのかという確信」も大事ですが、それ以上に「自分は本当にそこにいるのか」という絶えざる疑問文を自らに突きつけて行くことも必要だと思うキリハラです。皆さんはいかがですか。
石原に投票した方を責める記事ではないのでお間違いなきよう。
そんで以下、ハンドルネームバトンに答えます。